相模原市議会史

公開日 2024年4月8日

   

1.議会史とは

 議会史とは、その名の通り「議会の活動の歴史(議会が審議してきた内容の歴史)」をまとめたものです。
過去に議会で審議した内容を知ることができる資料として「会議録」がありますが、その量は膨大で、知りたい情報にたどり着くことは容易ではありません。
 また、現在では、会議の開催ごとに「議会広報紙(さがみはら市議会だより)」を発行しているほか、ホームページ等に情報を随時掲載していますので、それによって概略を知ることはできます。
 しかし、過去のまとまった期間について、国内外の情勢などを踏まえた大きな流れや傾向を知ることは、個々の情報に接するだけでは理解が難しいものです。
 「議会史」は、まさにそのような部分を補うものといえ、これまでに、全国の多くの地方議会において、様々な形で編さんが行われました。
 

2.相模原市議会史について

 相模原市議会では、明治22年から昭和54年3月までを編さん対象期間として、昭和58年から平成8年にかけて「相模原市議会史」の編さん事業に取り組み、

 ・資料編Ⅰ(平成3年3月発行)
 ・資料編Ⅱ(平成5年3月発行)
 ・記述編Ⅰ(平成6年5月発行)
 ・記述編Ⅱ(平成7年3月発行)
 ・年表編 (平成8年3月発行)

の5巻を刊行しました。

 

3.相模原市議会史(明治22年~昭和54年)の紹介

 上述のとおり、昭和54年4月以降を編さん対象期間とした相模原市議会史、言い換えると、昭和の後期・末期から平成、そして令和にかけての相模原市議会の活動をまとめたものは、発刊に至っていませんが、今後の編さん・発刊を見据え、過去に編さんした相模原市議会史の内容を振り返るのは意義のあることと考えられ、また、多くの皆様に「議会史」について知っていただく一つのきっかけになるよう、ここでその一部を紹介します。

 

(1)相模原市議会史の目次

 目次は、内容の目印になるだけでなく、相模原市議会史のもつ雰囲気を伝えるものと考えられることから、データ化を行いました。

  ①資料編Ⅰの目次[XLS:55KB]

  ②資料編Ⅱの目次[XLS:130KB]

  ③記述編Ⅰの目次[XLS:167KB]

  ④記述編Ⅱの目次[XLS:149KB]

  ⑤記述編における「市議会と市政」の章の内容[XLS:39KB]

  ⑥年表編の目次[XLS:62.5KB]

  ⑦年表編サンプル(町制以前)[XLSX:432KB]

 

(2)相模原市議会史の特色

 議会史は、多くの地方議会において編さんされていますが、その内容や考え方については、必ずしも全てが共通なものにはなっておらず、それぞれ特色があります。相模原市議会史の形式的な特色としては、大学教授等による学者の方々に執筆いただいたことがあげられます。特に、記述編はⅠ・Ⅱともに1,100ページを超えるものになっており、各執筆者が膨大な資料を読み込み、考察したことが容易に想像されます。
 また、内容面においても、執筆陣による議論を経た結果として、大きく次の3つの特色をもったものになっており、議会史の存在価値を高めています。
 ①村会、町会の議会活動を理解するために、議員の選挙権、被選挙権が大幅に制限されていた時代の「市制
  町村制」、自治権が拡充された戦後の「地方自治法」など、議会活動の背景となる法学的な解説を試みて
  いること
 ②全国にまれにみる人口増加と都市化の課題に対応する行政施策を追跡する意味で、毎年当初予算の上程時
  に行われる市長施政方針演説を全部収録していること
 ③本市の発展過程において欠かすことのできない「町村合併」、「軍都計画」、「工場誘致」、「米軍基地
  問題」などの主要問題について、可能な限りの資料掲載を行っていること

 編さんにあたって参照等した書類・資料(抜粋)[XLSX:13.7KB]

 

(3)相模原市の歩みについて

 ここでは、相模原市議会史資料編Ⅰ「発刊にあたって」の一部(抜粋)を紹介します。

 本市は、農業を中心とした時代を経て、昭和33年の首都圏整備法による第1号の 市街地開発区域に指定されたことなどを契機に工業都市として躍進し、特に全国でもまれにみる人口の急増時代を迎え、急激な発展を遂げました。

 この急激な都市化の進展は、多くの行政上の課題を生じましたが、諸先輩議員の郷土発展の願いと市民福祉の向上のための熱意と英知によって、学校建設や道路整備など幾多の課題を克服し、今や首都圏の広域中核都市として、21世紀に向け力強く発展を続けております。

 私どもはこの先人のたゆまぬ努力によって築きあげられた本市の歴史的過程の中から事実を把握し、本市議会の活動の歴史を知ることが必要であり、これを将来の指針として、歴史と伝統を継承しつつ、健康で文化的な市民生活の実現に努力しなければならないと信じます。

 

(4)記述編ピックアップ(その1) ※令和3年11月掲載
   ~ 明治時代にも伝染病対策が議会(村会)で取り上げられていました ~

 令和2年の1~2月頃から、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の問題が大きくなりました。当初は、感染した患者の濃厚接触者等に対する「PCR検査」から始まり、次第に感染が拡大していく中、人と人との接触を抑えるために「公共施設の休止」や「小中学校の臨時休業」などが実施されました。また、市販のアルコール消毒液等が入手困難になったことに鑑み、本市では、令和2年4月下旬から6月中旬まで、除菌効果が期待できる「次亜塩素酸水」の無料配布が行われました。さらには、官民を問わず「テレワーク(在宅勤務)等の推進」や「押印に関する規制・制度・慣行の見直し」の意識が一気に浸透していきました。一方、国の緊急経済対策としては、「特別定額給付金」をはじめとする各種施策が行われました。なお、令和2年(2020年)は、東京でオリンピック・パラリンピックが開催される予定でしたが、コロナの世界的流行を受け、1年延期されました。

 その後、「新しい生活様式」を取り入れる動きが進み、「ウィズ・コロナ」や「アフター・コロナ」などの言葉も生まれ、しだいに「暮らしや地域経済」を継続的に支援する必要性の認識が高まっていきました。

 そして、令和3年に入ると、日本でも「ワクチン接種(集団・個別)」の体制整備が進み、本市では、高齢者施設に入所・入居している65歳以上の方への接種が4月から始まり、順次拡大され、令和3年11月1日現在で、2回接種済が514,200人となりました。また、7月から8月にはオリンピック・パラリンピックが開催されました。

 現在(令和3年11月上旬)は、いわゆる「第5波」の収束を感じることができる状態ですが、これまでに、相模原市議会では、新型コロナウイルスに関係する質問・質疑が数多く取り上げられました。その詳細は広報紙(相模原市議会だより)などに譲るとして、ここでは、明治時代にも伝染病対策が議会(村会)で取り上げられていたということを、相模原市議会史(記述編Ⅰ)から抜粋して紹介します。

 

 記述編Ⅰピックアップ(明治時代の議会でも伝染病対策)[XLSX:48.2KB]

 相模原市における「第5波」(令和3年7月頃~9月頃)[PDF:621KB]

 

 この中で、「予防委員」という語が頻出しますが、これは、明治30年制定の伝染病予防法に規定された「伝染病予防委員」のことと思われます。(当時の伝染病予防法の条文は、国立公文書館デジタルアーカイブなどで確認することができます)

 

明治30年3月30日 法律第36号 傳染病豫防法

 

第15条

傳染病流行シ若ハ流行ノ虞アルトキハ市町村ハ地方長官ノ指示ニ從ヒ

市制第61條 町村制第65條ニ依リ傳染病豫防委員ヲ置キ檢疫豫防ノ事ニ從ハシムヘシ

但シ市町村會ノ議決ニ依ルノ限ニ在ラス

豫防委員ニハ醫師ヲ加フヘシ 其ノ醫師ヨリ出ツル者ハ市町村長之ヲ選任ス

 

 なお、予防委員が具体的にどのような活動や業務を行っていたかについては、記述編Ⅰからはわかりませんでしたが、別の文献(改正伝染病予防法要義 隔山和三郎 偉業館 1905)によると、「住民をして相當の助力を為さしめ併せて豫防上の知識を養成普及せし」め、また「市町村の代議機關と行政機關との聯絡疎通を保ち両者圓滿の運轉とによりて豫防の奏効を期せむとする」ために置かれていたようです。

 また、伝染病の種類としては「コレラ」を中心とした記述になっていますが、症状としては次のようなものだったそうです。

 

宮川米次「法定傳染病とは何か」(通俗医学講座第4輯 東京朝日新聞発行所 昭和4年)

 

 發病した際のおもな徴候は(中略)突然嘔吐し、下痢が来る、腹痛がある、その初めに吐出するもの、假として出る物は、食物の残渣か、通常下痢便であるが、間もなく米の湛ぎ汁の様な、白い輕く濁った一種特有な臭ひのする水を一時に驚く計り澤山吐いたり、下したりする。然かもその吐くのに普通食當りなどの場合の吐瀉とは異なって餘り苦しみもなく、容易にダアーと吐く、(以下略)。

 さて病人はこの特有な吐瀉及び下痢が一、二回あると、見る見る内に衰弱して、全く無氣力になって終ふ、吾々は之れを虚脱と名付けて居る。熱は低く、屡々平温以下であるに、冷汗を出し、見るからに隠阻な顔をして、この世の人ではない様な容貌になる(以下略)。皮膚並に口は全然渇いて終ひ、皮膚は弾力を失うて摘まみ上げた皺が元に返らない様になって終ふ、尿は全然出ない、聲は涸れて来る、通常この様な特有の症状を現はすものは一、二日の内に死んで終ふか、或は假死の状態になって、半死半生の境を彷徨し、数時間、十数時間生きて居て死ぬのを常とする。(中略)

 以上の外に「コレラ」の病症は色々で、發病後数時間で死ぬ、まるで雷にでも打たれた様に早く終はるもの、或は又高熱を出して一寸「チフス」かと思はれる様なものもあるが、又一方には僅かに数回の下痢位で治つて終ふものも却々に多い。

 

(5)記述編ピックアップ(その2) ※令和4年1月掲載
   ~ 普通選挙制の実現 ~

 普通選挙(かつて、general suffrageを「普通選挙」と訳したようです。suffrageは参政権・選挙権の意味。なお、現在ではuniversal suffrageと言われているようです。)という言葉を意識する機会は、そう多くないかもしれません。

 日本での「普通選挙制の実現」とは、一般的には大正14年に普通選挙法が制定(正確には「衆議院議員選挙法」が改正)されたことを指すものと思いますが、その翌年には市制・町村制や府県制も改正されたことで、村会(町会・市会・府県会)議員についても普通選挙制が導入されました。(つまり、衆議院議員の選挙に関する法律と、地方議会議員の選挙に関する法律が分かれていたことになります。)

 大正14年における衆議院議員選挙法の改正の主な内容は、「選挙人資格から納税要件が撤廃された」というものであり、逆に言えばそれまでは税額(直接国税3円以上)が選挙資格になっていた(政治能力の条件になっていた)ということですので、大きな改正であったものと思われます。(市制・町村制における納税要件については、細かく言うと、大正10年改正時に「直接市町村税納税者」に変わり、大正15年改正時にそれが撤廃されました。)

 なお、この時点での普通選挙は、あくまで「男子」普通選挙に過ぎませんでした。女性を含めた普通選挙の実施は、結果的には戦後になりましたが、すでにこの時点においても女性参政権(当時の言葉では婦人参政権)を求める気運はあったようです。

 村会(町会)議員について普通選挙制が導入された大正15年の町村制改正、そして納税要件が「直接市町村税納税者」となって公民権が拡張された大正10年改正に関する説明が記述編Ⅰにありますので、ここでその一部を紹介します。

 

 町村制の「大正15年改正(普通選挙制の導入)」と「大正10年改正(公民権の拡張)」[DOCX:37.5KB]

 

(6)ピックアップ(番外編)  ※令和4年3月掲載
   ~ 橘樹郡(たちばなぐん)って? ~

 

 相模原市域(4町と合併する前の市域)は、かつて「高座郡」に属していました(現在では寒川町が高座郡に属しています)。

 また、相模原市と4町(城山町・津久井町・相模湖町・藤野町)が合併したことにより、「津久井郡」の名称が消滅しました。

 このように、相模原市にゆかりのある「郡」の名称は高座郡や津久井郡ですが、相模原市議会史年表編のページをめくったところ、「橘樹郡」という文字を見つけました。

 

昭和2年7月8日

 相武鉄道 大野村淵野辺・橘樹郡高津間、田名村高田橋・愛甲郡愛川村間 敷設認可される

 

 そこで、神奈川県に存在する(存在していた)郡について、神奈川県会史第1巻(昭和28年3月発行)で確認してみました。

 

  神奈川県における「郡」について[DOCX:12.7KB]

 

 なお、「橘樹郡高津」は、現在の川崎市高津区(歴史的には高津村→高津町→川崎市に編入)を指すようです。

 

(7)記述編ピックアップ(その3)  ※令和4年6月掲載
   ~ 昭和47年に初めて基本構想を議決 ~

 

 地方公共団体の自主性・自立性がより発揮されるようにするため、「地方分権改革推進計画」が平成21年12月15日に閣議決定され、それに基づいて平成23年に地方自治法が改正されました。

 この改正のときに、地方自治法から次の条文が削除されました。

 

削除前の地方自治法第2条第4項

 

4 市町村は、その事務を処理するに当たつては、議会の議決を経てその地域における総合的かつ計画的な行政の運営を図るための基本構想を定め、これに即して行なうようにしなければならない。

 

 市町村が長期的な経営のあり方をどのような手続・形態で基本構想としてまとめるかどうかは、個々の市町村の判断に委ねることが適切である、ということで地方分権改革推進計画に基づいて廃止されたわけですが、もともとこの条文は昭和44年3月の地方自治法改正の際に追加されたものであり、そのときには次のように説明されていました。

 

  昭和44年3月の地方自治法改正について[DOCX:15.9KB]

 

 昭和44年の地方自治法改正を受けて、相模原市では、昭和47年に基本構想を初めて議決しました。このことについて、記述編Ⅱにおいて詳細な説明がありますので紹介します。

 

  基本構想の議決(昭和47年)[DOCX:219KB]

 

 記述編Ⅱ(686ページ以降)の記述にあるとおり、基本構想を初めて議決した昭和47年から4年前の昭和43年に、相模原市では「総合計画」を策定し、その中で既に都市づくりの基本構想を明らかにしていました(昭和44年の地方自治法改正よりも前であったため、議会での議決は無し)。総合計画策定に至った経緯としては、記述編Ⅱ(686ページ)によれば「神奈川県の指導」だったとのことですが、総合計画が策定されるまでには長い道のりがあったようです。ここでは、市長施政方針(昭和37年~)や広報紙の記事から紹介します。

 

  昭和43年の総合計画策定[DOCX:23.3KB]

 

 なお、平成23年の地方自治法改正により、基本構想の議決は(地方自治法上は)不要となりましたが、相模原市では、相模原市議会基本条例第11条において、「総合計画の基本構想の策定及び改廃」を“議会の議決すべき事件”として規定しており、直近では令和元年6月に議決しています。

 

(8)記述編ピックアップ(その4)  ※令和4年6月掲載
   ~ 国に先んじて児童手当制度を実施 ~

 

 「地方自治体が、国に先行する形で独自に制度を実施した」という事例は、最近では「未婚のひとり親に対する寡婦(寡夫)控除のみなし適用」があります。令和2年に所得税法が改正されて「ひとり親控除」が創設されるまで、未婚のひとり親は、寡婦(寡夫)控除に相当する所得控除の適用を受けることができませんでした。寡婦(寡夫)控除は、婚姻歴があることが前提になっていたためです。また、所得控除の範囲に限らず、他の様々な制度において、その適用対象として寡婦(寡夫)を設定していたものがあり、それらについても未婚のひとり親は適用の対象から外れてしまう状態になっていました。そのような中、地方自治体が国に先行する形で、保育料をはじめとする子育て・福祉施策などにおいて、未婚のひとり親が寡婦と同様の扱いになるよう、独自に「寡婦(寡夫)控除のみなし適用」を行う例が次第に増加していきました。(その後、平成30年度には国の予算措置により全国的にみなし適用が実施され、令和2年に所得税法が改正されて「ひとり親控除」が創設されました。)

 このように、地方自治体が国に先行したケースの一つとして「児童手当」(児童手当法は昭和46年に公布)があり、記述編Ⅱにその記載がありますので、ここで紹介します。

 

  国に先んじて児童手当制度を実施[DOCX:1.46MB]

 

(9)記述編ピックアップ(その5) ※令和4年10月掲載
  ~ 市長提出議案を否決 ~

 

 令和4年6月定例会議において、議案第77号「相模原市表彰条例の一部を改正する条例について」が市長から提案されました。提案の理由は「神奈川県議会議員及び国会議員を自治功労表彰の対象となる職に追加するため、自治功労表彰に係る規定等を改正する」というものでしたが、総務委員会(6月9日開催)での審査において、委員長を除く出席委員6名による採決で可否同数となり、相模原市議会委員会条例第16条の規定により、委員長が否決と決定しました。そして、6月30日の本会議における採決で、賛成少数により否決となりました。(委員会や本会議における実際の議論については、議会中継や会議録で確認いただくことができます)

 今回の結果を受けて、過去(昭和54年3月まで)に市長提出議案を否決した事例について議会史で確認してみたところ、昭和47年と昭和49年に1件ずつあったことがわかりました。ここでは、昭和47年の事例について、記述編Ⅱから抜粋して紹介します。

 

  市長提出議案を否決した事例(昭和47年)[DOCX:24.3KB]

 

(10)記述編ピックアップ(その6) ※令和5年1月掲載
  ~ 予算の組替動議 ~

 

 予算の組替動議とは、「議会から提案者(市長)に対して、提案した予算を議会が望む内容に市長が自発的に改めることを要求する動議」のことです。

 令和4年12月定例会議において、「議案第130号令和4年度相模原市一般会計補正予算(第8号)組替動議」が議員から提出されました。当該補正予算は、市長等常勤の特別職と議員に対する期末手当の引き上げ分を含むものであり、それらの増額補正に係る部分の減額を求めるものでした。結果は、賛成少数により否決され、原案が賛成多数で可決されました。

 予算の組替動議について、過去(昭和54年3月まで)の事例を議会史で確認したところ、少なくとも3回(昭和46年度、50年度、51年度)あったことがわかりましたので、これらについて記述編Ⅱから抜粋して紹介します。

 

  予算の組替動議が提出された事例[DOCX:21.5KB]

 

(11)記述編ピックアップ(その7) ※令和5年9月掲載
  ~ 当選人の繰上補充 ~

 

 2019年(平成31年)4月7日執行の相模原市議会議員選挙(中央区選挙区 定数17)において、開票の結果、17番目(当選最下位)の得票が3158票で、2人が同じ得票数で並びました。そのため、公職選挙法の規定により、くじ引きにより当選人が決まりました。

 それから4年後の、議員の任期満了が近づく2023(令和5年)年3月に、中央区選出の議員の死去により欠員が生じたことに伴い、4年前の選挙で当選人とならなかった候補者が、繰上補充により当選人になりました。

 公職選挙法では、選挙の当選人が死亡・辞職した場合に、次点の候補者を繰り上げで当選人とすることが規定されています。地方公共団体の議会の議員については、対象となる選挙の期日から3箇月以内に欠員が生じた場合に、次点候補者が繰り上げ当選となりますが、3箇月を経過した場合であっても、当選人と同数の票を獲得し、くじ引きにより当選人にならなかった者がいる場合は、その者が繰り上げ当選となります。

 くじ引きで当選人が決まり、さらに任期満了近くになって繰上補充が行われたという、珍しいケースのように思えますが、同じ時期に、他の自治体の議会においても類似の事例(2019年4月の選挙で得票同数のためくじ引きが行われ、4年後の2023年に、市議が県議選に出馬したことに伴い、くじ引きで当選人にならなかった者が繰上当選となった事例)があったことにも驚きます。

 相模原市議会における過去の事例を議会史で確認したところ、この事例と同じものは見当たりませんでしたが、繰上補充については事例がありましたので、記述編Ⅱから抜粋して紹介します。

 

  繰上補充が行われた事例[DOCX:20.7KB]

 

※補足

 議員に欠員が生じた際に、「同数の票を獲得したものの、当選人にならなかった」者を繰り上げで補充する制度自体は、かつての衆議院議員選挙法にもみられますが、現在の形に近いものになったのは、大正14年の改正のように思われます。

 なお、同数の票を獲得した者をこのように扱う理由について、文献(改正衆議院議員選挙法正解 小中公毅ほか 法令審議会 1925)によれば、「当選人たることを得なかったのは、単に抽籤の結果に基くのみで、之を得票数から見れば、当選人となった者と同数の得票あった者で、即ち当選人たるに十分なる選挙人の信任を得た者だと云うことが出来るから、(中略)抽籤に依り当選したる議員が欠員と為った場合のみに限らないで、議員中何れが欠員となった場合でも当選人と定むることは、不当でないと認めらるるに由る」とのことです。

 

(12)ピックアップ(番外編)  ※令和6年1月掲載
   ~ 議場コンサートの実施
 ~

 

 相模原市議会では、令和5年11月28日と29日に議場コンサート(両日ともに午前9時からの20分間)を開催しました。議場コンサートは、「開かれた議会・身近な議会」を感じてもらうことなどを目的に、多くの地方議会で実施されているものですが、相模原市議会としては、昭和44年に現在の議場になってから初めての開催となり、両日ともに多くの市民にお越しいただきました。

 どんなイベントも、実際の開催に至るまでには長い道のりがあるものです。ここでは、相模原市議会において議場コンサートの実施が決まるまでに辿った経緯をご紹介します。

 

 令和3年度に、議会運営委員会(議運)において「議会改革検討会」という任意の会議体を設置することが決定されました。この検討会では、各会派から様々な提案がなされましたが、その中で2つの会派から「議場コンサートの実施」があげられました。協議の結果として、令和4年2月9日の議運において、「①(検討会では)実施の方向で協議が整ったので、(これ以降は議運において)対応いただきたい」旨の検討会報告が確認されるとともに、「②新型コロナ収束後の議場コンサート開催という方向性で、協議時期や内容も含めて検討」することとされました。

 その後、令和5年5月に新型コロナウイルス感染症の位置付けが5類感染症になり、それまでコロナ対策をしていた議会運営について、6月定例会議から(ほぼ全てを)従前に戻すことが5月23日の議運で決まり、それに伴って「傍聴席の数の制限」も解除となり、さがみはら市議会だより8月1日号では、特集記事として「ライブ体験! 市議会を傍聴してみよう」を掲載し、市議会の傍聴を大きく案内しました。

 そして、7月25日の議運において「12月定例会議の期間に議場コンサートを試行で行う」こととされ、9月29日の議運において「出演団体」が確認されました。

 

令和5年7月25日 議会運営委員会における資料(抜粋)

 

議場コンサートの実施について(案)
【内容】
開催日程:12月定例会議 代表質問の初日・予備日の2日間
開催時間:午前9時から午前9時20分の間
招致方法:紹介による招致
周知方法:市議会HP等による開催の周知
※出演者には、事前に撮影等の許可を得ることとし、撮影は可とする。
※議会中継は行わないこととする。

 

 

当時の案内チラシ(一部加工しています)[PDF:517KB]

 

(13)記述編ピックアップ(その8)  ※令和6年4月掲載
   ~ 昭和22年の第1回統一地方選挙 ~

 

 昭和16年4月29日、2町6村(座間町、新磯村、麻溝村、上溝町、田名村、大沢村、相原村、大野村)の合併により相模原町が誕生し、同年5月30日に第1回町会議員選挙が行われて36名の町会議員が選ばれました。合併前の各町村の議員定数は、神奈川県統計書(昭和14年)によると、座間町と大野村が各18、他の1町5村は各12の合計108でした。合併後の議員定数は、町村制の規定では30でしたが、日本最大の町(当時)で30ではあまりにも少なすぎるとして、選挙前の5月19日に定数36が認められました。このときの詳細は、相模原市史第4巻(昭和63年再版発行)653~658ページ「新相模原町会の成立」に記述があります。

 さて、議員の任期は当時も4年でしたので、次の町会議員選挙は昭和20年のはずですが、実際に行われたのは昭和22年4月30日(第1回統一地方選挙)でした。これはどうしてなのでしょうか。相模原市議会史記述編Ⅰの580ページには、「(昭和)22年5月の地方自治法施行による新たな制度での町議会発足に備えて、直前の4月末選挙が行われるまでの6年間は、議員の任期が延長されて改選が行なわれなかった」との記述がありますが、どういう時代背景だったのでしょうか。

 このときの流れについて、ここでは国立公文書館デジタルアーカイブや帝国議会会議録検索システムで確認ができることをご紹介します。

 

昭和16年の町会議員選挙から昭和22年の第1回統一地方選挙までの流れ[DOCX:44.1KB]